こんにちは まりぶです。
前回、金継ぎされて高額品になった「バカボンカップ」の話をしました。
あの日、シンクで鳴った「コツン」という音。
あれが終わりの音だと思いました。
けれど半年後、
金の線をまとって戻ってきたこのカップは、
どこか誇らしげに見えました。
「バカボンが着替えた!」(笑)
タダだったはずのカップは、
いつの間にか、
我が家でいちばん手放せない存在になっています。

ここで、ふと考えました。
「価値」とは何だろうかと。
必ず「値段」に関係があるものでしょうか?
あのカップには、
娘がまだ小さかった頃の時間が染み込んでいます。
不器用な絵付けも、
先生とのやりとりも、
毎朝それでコーヒーを飲んできた25年も。
全部が、この器の中に残っている。
ヒビは増えましたが、
思い出もまた増えました。
値段はついていなくても、
確かに積み重なってきたものがある。
一方で、「値段」は数字です。
誰にでも同じ基準で示せるもの。
でも「価値」は違います。
それは、その人の記憶や物語と結びついたときに生まれるもの。
そこに値段はつけられません。
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そして金継ぎの線は、
割れたことを、
この器の新たな歴史を作りました。
傷がついたから終わりではなく、
傷があるからこそ深くなる。
タダだったこのカップは、
11,000円を払ったことで高くなったのではなく、
「向き合った」
「受け入れた」
ことで、私の中で特別な存在になりました。
値段は後からついてきただけ。
本当の価値は、
ずっと前からそこにあったののだということにも気づきました。
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そして
モノに対してどこまでも大切に扱う、昔の日本人の意識の高さにも触れた気がしました。
金継ぎの線は、
ヒビを隠すためのものではありませんでした。
傷をなかったことにするのではなく、
そこにあえて金を置く。
欠けたことを恥じるのではなく、
その歴史を、器の一部として残す。
日本には、
「壊れたら終わり」ではなく、
「壊れてからが始まり」という美意識があります。
金継ぎは、
欠けやヒビを“修復”する技術でありながら、
同時に“肯定”であり“美”の文化でもあるのだと感じました。
完全なものよりも、
不完全なものに宿る味わい。
均一よりも、
ひとつしかない表情。
それはどこか、
侘び寂びにも通じる感覚なのかもしれません。
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それは、どこか人の生き方にも似ている気がします。
私たちもまた、
誰しもが失敗や後悔や傷を抱えて生きていますよね。
けれどそれを消そうとしたり
なかったことにしようとするよりも、
「向き合い」
「受け入れる」
ことでそこに意味が生まれて、
人生は少し深くなるのかもしれません。
失敗も傷もそのうち笑い話になり、
その人の意外な面が現れ、深みに感じます。
傷は、弱さではない。
それは、
生きてきた証であり、成長した証。
バカボンカップを見ながら
そんなことを思ってみたりしました。
このカップは、
壊れたことで価値を失ったのではなく、
壊れたことで、
物語を得ました。
何人かの人の手により今の形に作られました。
「育てられた」
といっても過言ではないです。
カップを育てるってなかなかいいなぁ(笑)
傷の跡
世界にひとつ
金の線